枯山水ガイド

枯山水の歴史

大名庭園のような豪華さや派手さはないものの、日本ならではの美意識である「侘び寂び」を感じることができる枯山水。

向き合うことで心に癒やしをもたらしてくれる枯山水は、観光地としてとても人気なスポットです。

日本独特の庭園様式として世界に誇れる枯山水は、一体どのように発展してきたかのでしょうか。歴史をたどってみましょう。

枯山水の歴史

枯山水とは?

枯山水とは、水のない庭のことで、池や遣水などの水を用いずに石や砂などにより山水の風景を表現する日本庭園の様式です。

【入門ガイド】枯山水とは?
枯山水とは?枯山水とは、水を使わない庭園のことで、石、砂、草木を使用し山や海などの雄大な自然風景を表現する日本庭園の様式の1つです。 大名庭園のよ...

時代ごとの枯山水

枯山水の特徴を時代ごとに追っていきます。

呼ばれ方 時代 出典
枯山水(かれさんすい) 平安時代 作庭記(さくていき)
乾山水(あらさんすい) / 乾泉水(あらせんすい) 鎌倉時代 源平盛衰記(げんぺいせいすいき)
唐山水(からさんすい) 室町時代 臥雲日件録(がうんにっけんろく)
仮山水(かさんすい) 室町時代 仮山水譜并序(かさんすいふへいじょ)
枯水形(かれみずがた) 江戸時代 築山山水伝
から泉水(からせんずい) 江戸時代 庭作不審書(ていさくふしんしょ)

平安時代の枯山水

「枯山水」という言葉は、平安時代後期に生まれました。

平安時代後期に書かれた日本最古の作庭書「作庭記」に記述されたのがルーツです。「枯山水」に関して次のような記述があります。

池もなく遣水もなき所に、石をたつる事あり。これを枯山水となづく。その枯山水の様は、片山のきし、或野筋などをつくりいでて、それにつきて石をたつるなり。

「作庭記」に書かれている「枯山水」は、庭園のなかの1区画に置く石、景石の置き方の様式を指していると考えられています。これを「平安時代式枯山水」「前期式枯山水」と呼びます。

平安時代に禅はまだ広まっていないので、現在の枯山水のイメージとは異なるものだっとと考えられます。

鎌倉時代の枯山水

中国から禅宗が伝えられ、鎌倉時代に本格的に広まりました。

そこで活躍したのが臨済宗の禅僧である夢窓疎石(むそうそせき)です。

一般的には、夢窓国師と呼ばれることが多いです。

国師とは、朝廷から高僧に授けられる称号のことで、尊敬の念を込めて夢窓国師と呼ばれることが多いのです。

夢窓疎石は、もともと浄土式の寺院であった西芳寺に呼ばれ、禅宗寺院として復興していきました。

その中で、枯山水を禅の修行をする場としてつくりました。

西芳寺の枯山水

鎌倉時代の書物「源平盛衰記(げんぺいせいすいき)」に、「乾山水」「乾泉水」の記述があります。

「乾山水」「乾泉水」は、盆栽のようなものを指す言葉と考えられ、現在の「枯山水」が指すものとは別のものを指す言葉と考えられています。

室町時代の枯山水

応仁の乱(1467年)で京都が荒廃し、より狭い土地に低予算で造ることができる枯山水(かれさんすい)が脚光を浴びました。

日本庭園は水を得られる場所に築くものであったが、枯山水様式の登場後は必ずしも水を使わなくとも造園が可能になりました。

日本人の侘び寂びの感覚に寄り添い、禅寺のみならず、武家や町人へも広がり大きく発展していきます。

江戸時代の枯山水

室町時代に大きく発展をした枯山水庭園は、江戸時代に入ると全体としては衰退の時期を迎えます。

戦国の世が明けた江戸時代は、経済が安定し富が有力な大名や商人の元に集まるようになりました。

その結果、お金持ちの大名が、お金をふんだんに使って大規模で娯楽的な庭園を作り始めました。

この庭園が「大名庭園」です。

その影響でこじんまりとしていて、高い思想性を表現している枯山水は、存在が薄くなっていきます。

そんな過渡期に枯山水をいくつか残したのが、小堀遠州(こぼりえんしゅう)です。

小堀遠州の枯山水

昭和〜現在の枯山水

江戸時代に衰退した枯山水が復活するのは昭和になってからです。

昭和時代に重森三玲という近代作庭家が色あせることのない「永遠のモダン」を目指して枯山水庭園を数多く作庭しました。

重森三玲のモダン枯山水

枯山水の歴史まとめ

枯山水の歴史まとめ

・枯山水のルーツは平安時代に書かれた「作庭記」
・鎌倉時代に禅宗の思想が注入された
・戦で荒廃した室町時代に発展し、江戸時代に衰退
・昭和からモダン枯山水として復活